2017-08-07

供給過多(前編)

昨晩私はくだらないことを考えていた。
娯楽についてだ。私は娯楽の供給者であると。然して娯楽とは、受け手の存在の有無に価値が強く左右される。つまり供給者が如何なる思想や観念を以てして何かをを作り上げても、それが素晴らしいか否か、または社会的価値は供給者の預かり知らぬ所で成長するのだ。元来有るべき金銭的価値を除いてそこに合理性はほぼ存在しないと言っても過言ではない(例えば、高級な宝石を用いて作られればこの限りではない)。受け手のある供給者は何故受け手を持っていて、受け手のない供給者は何故受け手を持たないのか?そこの差分に合理性がほぼ無いというのがつまるところ今の私の主張である。何れにせよ、継続的に何かを発信し続けなければ供給者たりえない。では受け手のない供給者は、供給過多なこの世界でいかような精神を以て継続に至るのか、その思考を行っていたわけである。

先述の差分について、供給者の産物の価値はあくまでも他人が決める。ではその他人が決める基準が何かという話に当然なるわけだが、これは学である。ある分野において学が無い人が娯楽を享受できないことから、逆説的にこれを理解することはたやすかろう。例えば数学者にとって数学はロマンに満ち満ちた存在だが、そうでない者には煩わしく思われることも少なくない。時折それは数学者にとって良くない気分や状況をもたらすだろう。まぁ没入してしまえばそんなことはどうでもよくなりそうなものだが。兎に角、ここで言いたいのは価値は学で判断され、数学の好き嫌いに合理性はないというコト。好きに理由なんてないのさってコト。世に満ちる娯楽の全ては、情熱でも愛でもなく、娯楽の学で形成されているに違いない!という訳だ。(社会的価値に重点を置いた場合ね)

そして私にとっては忌まわしきことに、私も含めた人間は概ね、無自覚に右に倣えの性質を持っている。だから学の分布は多い方へ多い方へと傾く。音楽でいえば「J-POPは」「洋楽は」「〇〇というミュージシャンの曲は」「似たようなものばかりだ」と思ったことがないだろうか?そしておそらくそれは正しい。何故ならば多くの人間が音楽に関して似たような学を持っているからだ。イラストに関しても同じことが言えるだろう、こちらの方が娯楽としての人気の総分布が音楽より少ないように思えるので、或いは多くの人が学を持たず、アニメ・マンガのイラストをすべからく似ていると認識するかもしれない。

それが世の常だったとして、インターネットは莫大な供給過多をもたらしている。その中のちっぽけないち供給者であるこの私にはどんなサクセスストーリーがあるというのだろう?恐らく確率的には絶望的だろう。その中で私はどのような精神で絵を描き続けられるだろう?歌い続けられるだろう?